1985年、ブラジル中部のベロ・オリゾンチ(Belo Horizonte)。8トラックの録音卓に若者たちがかじりついていた。セパルトゥラ(Sepultura)の最初の音源、EP『Bestial Devastation』が刻まれた瞬間である。だがその引き金は、彼らだけが引いたのではない。北のベレン、東のリオ、海辺のサントス、そして国境を越えたブエノスアイレスから、すでに別の銃口が並んでいた。それが、ブラジル メタル前史と呼ぶべき80年代南米シーンの胎動だ。
ストレス(Stress)——1982年、ブラジル メタル前史の起点
アマゾン川河口の港町ベレン(Belém)から、1982年にブラジル初のヘヴィメタルLPが出る。バンド名はストレス(Stress)であった。1974年に学校仲間で組んだピンゴ・ダグア(Pingo d’Água)が、1977年末に名を改めて鋭くなった。ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン、ブラック・サバスのカヴァーで腕を温めていた一団が、1978年あたりにジューダス・プリースト、サクソン、アイアン・メイデンの音を浴びてから、自分たちの曲を組み始める。
セルフタイトルのデビュー作は、スピードメタル寄りに振った重量級のリフが軸である。場面によってはスラッシュの境界線まで踏み込み、クラシック・ヘヴィメタルやハードロックの呼吸も残している。シングル「O Oráculo do Judas」はラジオで火が付き、辺境のバンドを全国メディアの射程へ押し出した。この曲はもともと『Corpus Christi』という題で、検閲を通すために改題を強いられている。
歌詞の重みも見落とせない。作詞を担ったアンドレ・シャモン(André Chamon)の言葉は軍政の検閲にかかり続け、彼は同じ響きの別語へ差し替えて網をかいくぐった。ブラジル初のメタル LP は、単に音だけ重かったのではない——重い時代の重い証言として鳴っていた。
V8——1983年、ブエノスアイレスから来た「メタルのために闘う」声
南米メタル前史を語るとき、ブラジルの線だけ追っていても全体は見えない。1979年、ブエノスアイレス。リカルド・イオリオ(Ricardo Iorio)とリカルド・チョファ・モレノ(Ricardo Moreno)が、レッド・ツェッペリンの記録映画『The Song Remains the Same』の上映で出会い、V8 が動き始める。轟音を浴びに来た者どうしが引き合った出会いであった。
1983年、デビュー作『Luchando por el Metal』(メタルのために闘う)が、ブエノスアイレスのエスタディオス・エディポ(Estudios Edipo)で録られる。アルゼンチン・ヘヴィメタルの原点となった一枚である。「Destrucción」「Brigadas Metálicas」「Muy Cansado Estoy」、そしてアルゼンチン・ハードロックの大物パッポ(Pappo)が客演した「Hiena de Metal」——タイトルだけで時代の温度が伝わってくる。軍政の最終局面で、メジャーレーベルや大箱ベニューへのアクセスは半分閉ざされていた。それでも彼らはアルバムを完成させ、南米メタル史の礎石を置いた。
V8 の影響圏はアルゼンチン国内に留まらない。後年イオリオはエルメティカ(Hermética)、アルマフエルテ(Almafuerte)と中心人物として動き続け、南米メタルの系譜を辿ると、必ずどこかで V8 の名前が出てくる。
ドルサウ・アトランチカとブルカノ——1981年、地下で並走した二本の系譜
ドルサウ・アトランチカ:リオの「速くて荒い」線
ストレスがLPを出した1982年の時点で、ブラジルの地下では既に次の波が組まれていた。リオ・デ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)で1981年に発足したドルサウ・アトランチカ(Dorsal Atlantica)がそれである。ギター/ボーカルのカルロス・ロペス(Carlos Lopes)を軸に、モーターヘッド(Motörhead)とベノム(Venom)の影響を浴びた「速くて荒い」メタルを目指した若いバンドだ。1985年、リオの同郷バンド メタルモルフォーズ(Metalmorphose)とのスプリットLP『Ultimatum』が出る。これがブラジル初のスラッシュ/スピードメタルLPとされる。メタリカ(Metallica)の『Kill Em All』から一年半——南米から見れば、ほぼ並走していた距離である。
ブルカノ:サントスから出たエクストリームの起点
もう一つの起点は、サン・パウロ州で1981年に始まった。港町サントス(Santos)を拠点にしたブルカノ(Vulcano)——ジェマ・パウロ(Zhema Paul)とカルリ・クーパー(Carli Cooper)が動かした一団だ。出発点は、アスタロト(Astaroth)を名乗ったヘヴィメタルだった。1983年のデビューEP『Om Pushne Namah』の頃までは、まだ荒削りなヘヴィメタルの内側にいる。1985年のライブ盤『Live!』で版図を広げ、翌1986年に初のフルレングス『Bloody Vengeance』を発表する。ロック・ブリガーデ・レコーズ(Rock Brigade Records)から出た12インチのこの一枚は、南米だけでなくラテンアメリカ全域のブラック/エクストリームメタルの直接の起点として評価されている。テロライザー誌は「ブルカノはブラジルだけでなくラテンアメリカ全域の音楽的冒涜を始動させた、と多くが見ている」と記している。
セパルトゥラの音にブルカノの暗さと粗さが滲んでいるのは偶然ではない。先行する地下の轟きを浴びて育った世代が、自分たちの手で次の音を組んだ——その因果が、80年代南米メタルの背骨を作っている。
“You could say this is (one of?) the first black metal albums from South America; it features extreme music, blasphemy and particularly an attitude. It isn’t a stretch to say Vulcano had some influence on Sarcofago, and hence the bm-scene.”
これは南米で最初のブラックメタル・アルバムの一枚だと言っていい——過激な音、冒涜、そして何より「態度」がある。ブルカノがサルコファゴに、ひいてはブラックメタルという流れそのものに影響を与えたと言っても、言いすぎではない。
— Egregius(Encyclopaedia Metallum ユーザーレビュー)
軍政・検閲・テープトレード——「リソースのなさ」が音を尖らせた
南米メタル前史を語るとき、政治と流通の話を外しては成立しない。ブラジルでは1964年から1985年まで軍事政権が続き、アルゼンチンでも1976年から1983年まで軍政が敷かれていた。歌詞の検閲、集会の制限、外国レコードの流通制約——若いメタルバンドにとっての日常であった。
その制約が音を磨いた、という言い方は美化に近づきがちだが、事実として彼らはレーベルが来てくれるのを待たなかった。自主録音、自主プレス、ファンジン、テープ・トレード。1980年代ブラジルのメタルシーンでは、自分でレコードを出し、自分で流す経路が標準であった。コグメロ・レコーズ(Cogumelo Records)は1980年にベロ・オリゾンチでレコード店として始まり、1985年にレーベル業務へ進む。最初に出したのが、オーヴァードーズ(Overdose)とセパルトゥラのスプリットLP——のちにブラジル・メタル史の重要な起点となる一枚である。雑誌兼レーベルのロック・ブリガーデは、全国の地下を結んだ。
そこに鳴っていた音は、第一世界の本流から二、三歩遅れたフォロワーではなかった。ヨーロッパとアメリカの最新作がやっと届いた瞬間、すでに別の角度で組み直されて南米から出ていた。その時間差そのものが、独自性の原点になった。
前史の合流点——ブラジル メタル前史が Bestial Devastation へ流れ込む
1984年、ベロ・オリゾンチでマックス(Max Cavalera)とイゴール(Igor Cavalera)のカヴァレラ兄弟がセパルトゥラ(Sepultura)を結成する。イタリア領事館に勤めていた父グラシリアーノ(Graciliano)の急死で家が傾いた——その日マックスが手に取ったのがブラック・サバスの『Vol. 4』だった、という始まりは、いま聴いても胸に来る。バンド名「Sepultura」(ポルトガル語で「墓」)は、マックスがモーターヘッドの「Dancing on Your Grave」を訳したときに掴んだ言葉である。
1985年、コグメロ・レコーズからオーヴァードーズの『Século XX』とのスプリットEPとして『Bestial Devastation』が出る。ベロ・オリゾンチのJ.G.スタジオで8トラックの卓を使い、二日間で録音された。10代の若者たちの未整理のラフさがそのまま音になっている——だがそのラフさは、ストレス、V8、ドルサウ・アトランチカ、ブルカノが切り拓いた地下水脈の終点ではなく合流点であった。前史はここで本史へ繋がる。
セパルトゥラの轟音は、突然湧いて出た奇跡ではない。アマゾン河口からブエノスアイレスまで、五年以上にわたって南米の地下で打ち鳴らされ続けた音の集積点である。その前夜の音をいま聴き直すと、薄い回転ノイズの向こうに、検閲と貧しさを通り抜けてきた重さがいまだに鳴っている。

