復讐譚として片づけられている話がある。フェスに出させてもらえなかった歌手の妻が腹を立て、自分で祭りを立ち上げた——Ozzfest 1996 の成り立ちは、たいていこの一行で終わる。だが断り文句の中身まで読むと、話は復讐から少し離れた場所に着く。断られたのは音ではなかった。
断られたのは、メタルではなかった
打診の場面は、シャロン・オズボーン(Sharon Osbourne)本人が英ガーディアン紙に語っている。2001年5月25日の記事だ。相手はロラパルーザ(Lollapalooza)の主催者で、用件はその年のフェスにオジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)を出せないかという一点だけだった。
“They laughed at the idea,” she recalls, eyes burning at the injustice. “They all thought Ozzy was so uncool. So I thought, ‘Right, I’ll organise my own fucking festival.’”
「あの人たち、笑ったのよ」——不当さへの怒りを目に宿して彼女は振り返る。「みんな、オジーはとにかくダサいと思っていた。だから考えたの。よし、自分のフェスをやってやる」
— シャロン・オズボーン(The Guardian・2001年5月25日)
使われたのは uncool という語で、ダサい・かっこよくないという人物への評価にすぎない。音の話ではなかった。重い音そのものは、その年のロラパルーザをちゃんと通り抜けている。
1996年のロラパルーザは、メタリカ(Metallica)をヘッドライナーに迎えている。この起用は当時の客から反発を受けた。それまでの「非メインストリーム」を旨とする編成に反する、という理由だ。創設者のペリー・ファレル(Perry Farrell)はメタリカのマッチョな像が自分の平和なフェス観に反すると感じ、抗議してツアーを降りている。門の内でも外でも、審査の対象は音の重さから振る舞いのほうへずれていく。
ではオジーの振る舞いは、当時どう見えていたのか。同じガーディアン紙の2001年の記事は、Ozzfest がオジーを「1980年代末の、抜け殻のような、薬でいっぱいのパントマイム役者」から音楽界の力へと立て直したと書いている。断り文句が刺したのは、この像だったのだろう。
オジーはこの種の判定を、17年前に一度受けている。1979年にブラック・サバス(Black Sabbath)から外されたときも、問われたのは曲ではなく本人の状態だった(BLACK SABBATH を引き裂いた「たった一言」)。17年後の断り文句は、その反復に見える。
Ozzfest 1996 は2日しかなかった
初回は巡業ではない。1996年10月25日にアリゾナ州フェニックス、翌26日にカリフォルニア州デュヴォアで開き、それで打ち止めになった。

この2日の音は翌年、ライブ盤『Ozzfest Live』として世に出る。1997年4月29日発売の10曲入りで、曲順がそのまま番付の下から上へ登る順路になっている。1曲目に入っているのはコール・チャンバー(Coal Chamber)の「Loco」。シャロン・オズボーン・マネジメントの顧客名簿にある名前だ。祭りの1曲目は、身内から始まっていた。
そこからアース・クライシス(Earth Crisis)、ニューロシス(Neurosis)、フィア・ファクトリー(Fear Factory)と段を上がり、9曲目でスレイヤー(Slayer)の「Angel of Death」が来る。締めはオジーの「Perry Mason」。初回の最後には、前年に出たばかりの新曲が据えられた。
「ダサい」と言われた男の、前年の成績
この評価を額面どおり受け取れば、1996年のオジーは落ちた歌手ということになる。数字はそう言っていない。『Ozzmosis』は1995年10月23日に出て、全米ビルボード200の4位に届いた。当時のオジーにとって自身の最高位である。ツアーは「Retirement Sucks!」の名で1996年もまだ回っていた。売れなくなった歌手を断ったわけではない。
看板を借りない興行

翌年、Ozzfest はツアーになる。1997年の本編にはマリリン・マンソン(Marilyn Manson)やパンテラ(Pantera)が並び、会場の外ではマンソンの出演を中止させようという大規模な抗議が起きた。主催は1公演も落とさなかった。
この年の目玉は、外から呼んだ客人ではない。ブラック・サバスが、この舞台で組み直されている。オジー、トニー・アイオミ(Tony Iommi)、ギーザー・バトラー(Geezer Butler)の3人。ビル・ワード(Bill Ward)は健康上の理由で不在で、ドラムにはフェイス・ノー・モア(Faith No More)のマイク・ボーディン(Mike Bordin)が座った。この再結成が上首尾に終わったことが、同年12月4日と5日のバーミンガム NEC 公演につながる。そこで録られた音が1998年10月19日のライブ盤『Reunion』になり、全米11位、RIAA のプラチナ認定まで届いた。
同じころ、ロラパルーザは別の方向へ振れていた。1997年はエレクトロニカ勢を前へ出す編成を組み、翌1998年はふさわしいヘッドライナーが見つからなかったために中止が発表される。祭りそのものが、そこで一度終わった。
ヘッドライナーを毎年よそから借りてくる興行は、借りられなくなった日に止まる。Ozzfest の看板は興行主の家の中にいて、足りなければ自前で組み直せた。1997年のサバス再結成はその実演だと読める。断られる側から、断る必要のない側へ移る——1996年10月のあの2日で買ったのは、これだ。
2001年のガーディアン紙は、ロラパルーザはもう無く Ozzfest は毎夏アメリカで2,000万ドルを稼いでいると報じた。
看板が人であることの期限
この設計には、替えのきかない部品が一つある。最後に立つのが一人の人間だという点だ。
オジーはパーキンソン病の進行で歩けなくなり、2025年7月5日にバーミンガムのヴィラ・パークで黒い玉座に座って歌った。その17日後、7月22日に76歳で世を去っている。名前を祭りに入れた男の興行は、ここで生身の期限に触れた。
いまのフェスがヘッドライナーの更新に手を焼いているのは、この解を借りられないからでもある。最終スロットに自分の側の人間を置ける主催者は、そう多くない。1996年10月の2公演は、断られた側が自分で門を作り直した記録として読めるし、その門が一人の身体で支えられていた記録としても読める。
『Ozzfest Live』を頭から通すと、まだ名前の大きくないバンドの音から始まる。あの2日の順路は下から上への一本道で、いちばん上に座っていたのは、数か月前に笑われた男だった。

