AC/DC『Back in Black』(1980)——ボン・スコットの死から5ヶ月、喪服の黒が史上屈指のセールスになった

Back in Black ボン・スコット ── AC/DC『Back in Black』(1980)——ボン・スコットの死から5ヶ月、喪服の黒が史上屈指のセールスになった 名盤ガイド
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追悼盤という呼び名には、聴き返されないという含みがついてくる。悼むために作られた一枚は、悼む場面でしか鳴らされない。AC/DC(エーシー・ディーシー)の『Back in Black』は、ボン・スコット(Bon Scott)を失った5ヶ月後に世へ出て、その含みをきれいに裏切った。真っ黒なジャケットは喪服だと説明されてきたし、事実そのつもりで作られている。それでいて収められた10曲には、悼む音がどこにも見当たらない。

AC/DCの『Back in Black』は1980年7月25日、ボン・スコットの死からおよそ5ヶ月後に発売された。喪を表しているのは真っ黒なジャケットと冒頭の鐘で、10曲の歌詞は死を扱っていない。悲しみを外装に収めた作りが、この一枚を何十年も日常的に再生できるものにしている。

その黒は、レーベルとの妥協でできている

Back in Black ボン・スコット——襞の寄った黒い布地の接写
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1980年2月19日、ボン・スコットはロンドン南部の路上に停めてあった車の中で見つかった。検死の評決は不慮の事故死、死因は急性アルコール中毒と記録されている。33歳だった。残ったメンバーは解散も一度は考えたうえで、続ける道を選んだ。

ジャケットを全面黒にする案は、その死を受けてバンド側から出ている。アトランティック・レコードのアートディレクターが黒一色の版を起こし、悼みの印としてそのまま世に出るはずだった。レコード会社の営業部門が、真っ黒では店の棚に埋もれて誰の目にも留まらないという理由でこれを突き返す。

妥協点として入ったのが、ロゴとタイトルの周りを囲う灰色の縁取りだ。オリジナルのLPでは、その縁がホットスタンプで刷られていた。喪服として構想された面と、売り場で見えるようにという要求とが折り合った跡である。

鐘は教会から借りていない

Back in Black ボン・スコット——舗道に並べられた大きな金属の鐘
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アルバムは鐘の音で始まる。1曲目「Hells Bells」の頭、ギターが入る前に低い鐘がゆっくり打たれ、それが葬列の合図として働く。黒いジャケットを開いて針を落とした聴き手が、最初に受け取る音がこれだ。

この音の出どころを、バンドははじめイングランドの記念カリヨンに求めていた。屋外に据えられた鐘を録れば、車の走る音と鳩の羽ばたきが一緒に入ってしまう——後から消すのは無理だと鋳造所の側から指摘され、その案は流れている。

代わりに採られたのが、鐘を新しく作らせるという手だった。イングランドのジョン・テイラー社(John Taylor & Co)へ発注が回り、当初の2トンという注文は現場のベルマスターの判断で約1トンへ落とされている。録音のためだけに、青銅の鐘が一つ鋳られた。エンジニアは鋳造所へ出向き、その鐘を叩く音をその場で録った。

🎬 鐘がまだ響いているうちにギターが入ってくる。葬送の速度から曲の速度へ切り替わる継ぎ目に、この一枚の設計が出ている。

同じ鐘は、その年のツアーへ持ち出された。ステージの上に吊るされ、毎晩「Hells Bells」の頭で叩かれる。葬式の鐘を借りてきたのではなく、興行の道具として一つ作らせ、それを世界へ運んで回ったことになる。

『Back in Black』の10曲に、ボン・スコットの死は書かれていない

新しいヴォーカリストのブライアン・ジョンソン(Brian Johnson)には、表題曲の詞を書く仕事が回ってきた。ヤング兄弟が渡した注文は、はっきりしている。

“It can’t be morbid – it has to be for Bon, and it has to be a celebration.”

「湿っぽくしちゃいけない。ボンのための曲でなきゃいけないし、祝祭でなきゃいけない」

— ブライアン・ジョンソンの回想 / Ultimate Classic Rock

ジョンソンは頭に浮かんだ言葉をそのまま並べたと語っている。書き上がった詞に、死者の名前も別れの言葉も出てこない。九つの命を使い切って走り抜けた男の像が置かれ、そのまま押し切る形で曲は閉じる。

収録曲の中には、もっと際どいものもある。

「Have a Drink on Me」は酒を勧める歌だ。1980年2月15日、ロンドンのリハーサル室でアンガス・ヤング(Angus Young)とマルコム・ヤング(Malcolm Young)がデモを組んでいたとき、ボン・スコットはドラムの椅子に座って叩いている。「Let Me Put My Love Into You」と並んで、その日に形になった曲の一つだった。死因が急性アルコール中毒と記録された人物を送る盤に、酒の歌がそのまま残されている。趣味が悪いと書く書き手もいた。バンドは外さなかった。

「You Shook Me All Night Long」に至っては、死とも喪ともまるで関係がない。シングルとして切られ、そのままヒットしている。

🎬 追悼盤に入っている曲とは思えないほど陽気に転がる。ジョンソンの声が上へ抜ける瞬間の軽さが、この一枚の中身の性格をよく伝えてくる。

10曲の歌詞のどこにも、ボン・スコットの死そのものは書かれていない。喪はジャケットの黒と冒頭の鐘に押し込められ、そこから先へ一歩も出てこない。悼む一枚といつもどおり鳴らす一枚が、同じ盤の外側と内側で分業している。

🎵 収録は10曲、全体で42分ほどある。冒頭の鐘が消えたあとは、悼む顔をした曲が一つも出てこない。
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喪服の内側では、前の年からの作業が続いていた

この一枚の音が前作と地続きなのには理由がある。1979年7月27日に出た『Highway to Hell』が、すでにマット・ラング(Mutt Lange)の手による作品だった。乾いた音像に、コーラスを厚く積み上げる作り。あの設計はボン・スコットが歌っていた時点で出来上がっている。

それ以前のAC/DCは、シドニーのアルバート・スタジオでハリー・ヴァンダ(Harry Vanda)とジョージ・ヤング(George Young)に録ってもらっていた。ボン・スコット期でその体制の最後になったのが1978年の『Powerage』である。オーストラリアのスタジオ環境について書いたとき、あの国では3日で1枚録れたという話に触れた。ロンドンでラングと組んだ時点で、バンドはその速度から降りている。

ジョンソンがロンドンでオーディションを受けたのは1980年3月のことだ。4月には新しいヴォーカリストとして発表されている。録音はその直後に始まり、4月から5月にかけてバハマ・ナッソーのコンパス・ポイント・スタジオ(Compass Point Studios)で7週間ほど続いた。はニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオで仕上げられている。

死のあとにバンドが新しく足したものは、黒いジャケットと一つの鐘、それに新しい声だった。作り方も座組も、前の年から動いていない。

2024年8月、この一枚は全米で2,700万枚の出荷認定を受けた。アメリカ国内の売り上げ枚数で歴代3位に並ぶ数字で、世界での総計は5,000万枚を超えると見積もられてきた。悼むための盤なら、これほどの回数は回らない。

『Back in Black』が長く再生され続けたのは、悼む姿勢を音の中まで持ち込まなかったからだ。黒いジャケットと冒頭の鐘が喪の役目を引き受け、残りの42分は普段どおりのAC/DCとして鳴る。追悼の重さと日常の再生回数が、一枚の中で両立している。

ボン・スコットを悼みたい日には、頭の鐘まで聴けば足りる。そこから先では、彼が生きていたら同じ部屋で鳴っていたはずの音が続く。喪服を着せられたのは盤の外側で、内側で鳴っていたのはいつもの4人と、新しい一人の声だった。

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