1986年1月、ロサンゼルスのヒット・シティ・ウエスト・スタジオ。リック・ルービン(Rick Rubin)はエンジニアのアンディ・ウォレス(Andy Wallace)に、メタリカ(Metallica)のレコードを聴かせた。手本としてではない。間違いの見本として、である。スラッシュメタルが速さと重さを疑わなかった年に、ヒップホップの現場から来たプロデューサーは、スレイヤー(SLAYER)『Reign in Blood』制作の現場で、その常識を引き算で覆しにかかる。
ルービンがエンジニアに聴かせた「間違いの見本」
ルービンが自分たちに関心を寄せていると知り、ドラマーのデイヴ・ロンバード(Dave Lombardo)のほうから連絡を取った。ルービンはライブを観に来て、バンドをデフ・ジャム(Def Jam)との契約へ引き込む。当時の彼は LL・クール・J(LL Cool J) や ラン・ディーエムシー(Run-D.M.C.) を世に出したばかりのヒップホップのプロデューサーで、ヘヴィメタルを録った経験はほぼゼロだった。その男が、スタジオに入ってまずウォレスにメタリカのレコードを再生してみせる。
引っかかっていたのは残響だ。「速い音楽で、しかも音が大きければ、その大きな音どうしが隣り合うだけの隙間がなくなる」。ルービンは後年そう説明している。「全体がぼやけて、何が鳴っているのか本当には聴き取れない」。彼が欲しかったのは低音のにじみではなく、脈のほうだった。
奇妙な人選から出てきた答えでもある。メタルの定石を知らない耳だったから、「壮大に響かせるためのリバーブ」という業界の標準装備を疑える位置にいた。借りる引き出しを持たない男が、メタルの常識をにじみと聞き分けた。
「足す」のではなく「引く」——リバーブを切るという決断
1986年のメタル制作では、ギターと声に深いリバーブをかけ、奥行きと壮大さを音像に乗せるのが当然だった。ステージのスケールをアルバムへ移植する。それが標準仕様だったところへ、ルービンはギターの残響ゼロ、ヴォーカルの残響ゼロという選択を持ち込む。各音は鳴った瞬間に止まり、次の音と重ならなくなる。
結果として何が鳴っているか。トム・アラヤ(Tom Araya)の絶叫はステージで歌う位置になく、耳元で叫ぶ距離にいる。ジェフ・ハネマン(Jeff Hanneman)とケリー・キング(Kerry King)のリフは、独立した打音の連射として届く。ロンバードのキックは、床を蹴る速度がそのまま音圧になって顔へ当たる。ルービン本人は「足すより引くほうだった。本質へ立ち返る作業で、プロらしい定石をやらなかった」と振り返っている。引いた跡として残った輪郭が、その後40年のエクストリーム・メタルの基準音になった。
“Somebody at some time said, ‘You don’t need reverb to be good.’ Once we got that in our heads, we were like, ‘OK, that’s pretty fucking tight.'”
「いつだったか誰かが言ったんだ、『いい音を出すのにリバーブは要らない』って。それが頭に入った瞬間、俺たちは『なるほど、こいつはめちゃくちゃタイトだ』となった」
— ケリー・キング / Louder(Metal Hammer オーラルヒストリー)
レコーディングは1986年1月から3月まで続いた。硬いまま短く、という要求にウォレスは正確に応え、この一枚が彼の出世作になる。1991年にニルヴァーナ(Nirvana)『Nevermind』のミックスを任されたのも、カート・コバーン(Kurt Cobain)が SLAYER の音に惚れ込んでいたからだった。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(Rage Against the Machine)のデビュー作も、彼の手を通っている。
メタルを知らない耳が SLAYER の音を決めた例は、これが最初ではない。1985年の『Hell Awaits』でも同じことが起きていた(ヘヴィメタル未経験のプロデューサーが録った「Hell Awaits」)。二度目の外部の耳は、今度はジャンルの基準そのものを書き換えていく。
コロンビアが流通を拒否した「Angel of Death」
音は固まった。問題はその先で起きる。1曲目「Angel of Death」を聴いたデフ・ジャムの流通元、コロンビア・レコード(Columbia Records)が配給を拒んだのだ。ハネマン作詞のこの曲は、アウシュヴィッツでヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele)が行った人体実験を、距離を取らずに描いていた。親会社 CBS レコードの社長ウォルター・イェトニコフ(Walter Yetnikoff)は、この曲を外さない限り出さないと通告する。ユダヤ系の彼は「私の株主は全員ユダヤ人だ」と言い放ったと伝えられている。
1986年4月に予定されていたリリースは凍結された。バンドは曲を落とさない。ハネマンは1987年、英ガーディアン紙にこう話している。「『Angel of Death』は歴史の授業のようなものだ。第三帝国について読み込んで、その極端さのすべてに惹きつけられた。ヒトラーが国民を催眠にかけ、思うままに振る舞えたやり方に。医者だったメンゲレが虐殺者へ変わっていける状況に」。ナチスへの賛美ではなく、人間が殺戮者へ転じる経路への関心だと、彼は言い続けた。
出口を探していたルービンが見つけたのが、ゲフィン・レコード(Geffen Records)に流通だけ引き受けてもらう道だった。ゲフィンは自社ロゴを盤面に載せず、公式のリリーススケジュールにもこのアルバムを記載しなかった。1986年10月、『Reign in Blood』はようやく市場に出る。
10曲、29分に満たない——短さが暴力へ変換された日
10曲で30分を切る。当時のヘヴィメタル・アルバムとして明らかに短い。引き算の発想は収録時間にも貫かれている。残響を切り落としたのと同じ理屈で、引き延ばしたソロも繋ぎの間奏も削られた。最後の「Raining Blood」が叩き出すブラストの直後、針が音溝を抜けてレコードが終わる感覚は、聴いた者を「もう一度頭から」へ押し戻す。
1986年以前のスラッシュは、速さの中に勇壮さや叙事詩性をまだ残していた。ルービンが SLAYER から削り落としたのは、その装飾の側である。残ったのは脈打つ速度と、距離ゼロの叫び。後続のデスメタル、ブラックメタル、グラインドコアは、この音像への応答として自分たちのサウンドを設計していく。短く、くっきり、にじまない音。現場で求められたのはそれだけで、結果として誰よりも暴力的に聴こえる一枚が生まれた。
『Reign in Blood』制作から40年、ルービンが渡したもの
『Reign in Blood』のスピーカー越しに鳴っているのは、いまも輪郭だ。輪郭が崩れないから、リフのキメも、ロンバードの一打も、アラヤの怒鳴り声も、初聴の翌日まで耳の奥に残る。プロデューサーが現場で何を引いたかを、聴き手の耳のほうが覚えてしまう。そういう仕事は、メタルの歴史でもそう多くない。
耳の違和感だけを頼りに引かれた跡が、いまも『Reign in Blood』の表面に乗ったまま鳴っている。

