1972年8月、大阪フェスティバルホールと日本武道館に立った5人組がいた。ディープ・パープル(Deep Purple)。日本のレコード会社が現地盤のために回しただけのテープが、半世紀後にライブ盤の名盤の代名詞になる。あの夜のステージで鳴った音は、スタジオで一週間かけて磨いた音より速く、重く、生々しかった。
- 1972|DEEP PURPLE『Made in Japan』——レコード会社が回したテープ
- 1975|KISS『Alive!』——倒産寸前のレーベルを救った二枚組
- 1978|THIN LIZZY『Live and Dangerous』——証言が真っ二つに割れた二枚組
- 1979|UFO『Strangers in the Night』——シェンカーが去り際に残した音
- 1979|JUDAS PRIEST『Unleashed in the East』——東京から始まったメタルの輸出
- 1981|MOTÖRHEAD『No Sleep ’til Hammersmith』——ハマースミスの音は一秒も入っていない
- 1985|IRON MAIDEN『Live After Death』——二つの季節を貼り合わせた到達点
- ライブ盤の名盤7枚に共通するもの
1972|DEEP PURPLE『Made in Japan』——レコード会社が回したテープ
この盤はバンドが望んで作ったものではない。宣伝になると踏んだ日本のレコード会社が収録を決め、制作の監修まで握った。スタジオ盤で組んできたエンジニアのマーティン・バーチ(Martin Birch)を起用したのも会社側の判断で、当のバーチは8トラックで押さえた音が商品の水準に届くかどうか自信を持てずにいる。バンドが折れた条件は、日本国内でしか出さないこと。渋々の合意だった。
テープが回ったのは三公演。8月15日と16日の大阪、17日の武道館。盤に並んだ七曲のうち四曲が16日の大阪から、一曲が15日、残る二曲が武道館から採られている。
針を落とすと空気がほどけない。「Highway Star」の出だしで、イアン・ペイス(Ian Paice)のキックが床を蹴る速度がスタジオより一段速い。イアン・ギラン(Ian Gillan)の高音は「Child in Time」の中盤で割れず、絶叫の縁を保ったまま伸びていく。リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore)の「Smoke on the Water」のソロは、原曲より荒れていながら音程の核を一度も外さない。即興の余白が大きいぶん、誤魔化しの効かない演奏精度が剥き出しになる。
妙な後日談がつく。バーチもギランもブラックモアも、完成した盤を通して聴いていない。売り物にする気のなかった記録が、当人たちの耳を素通りしたまま世界の基準になった。
“In terms of live hard rock and roll, this is as good as it gets.”
「ライブのハードロックンロールという意味では、これ以上のものはない」
— ラーズ・ウルリッヒ(メタリカ)/Louder, 2025
メタリカ(Metallica)のドラマーは本作を「文句なしに最高のハードロック・ライブ盤」と呼び、聴いた回数を「およそ18,000回」と数えている。
1975|KISS『Alive!』——倒産寸前のレーベルを救った二枚組
三枚のスタジオ盤はどれも商業的に届かず、所属のカサブランカ・レコード(Casablanca)は資金が尽きかけていた。賭けとして投げ出された二枚組ライブ盤が、バンドとレーベルを同時に救う。1975年5月のデトロイト、6月のクリーブランド、7月のダヴェンポートとワイルドウッド。四会場のテープをエディ・クレイマー(Eddie Kramer)がまとめた。
スタジオ盤で沈んだままだった「Rock and Roll All Nite」は、この盤のライブ・バージョンがシングルとして切られ、全米12位まで駆け上がる。バンド初のトップ20ヒットは、スタジオ録音ではなくステージの録音から出た。曲は同じ。鳴り方が変わり、届く相手が変わった。
本作には長い注釈がつく。ポール・スタンレー(Paul Stanley)は、必要だったのは演奏のエネルギーを捉えることで、実際に起きたことを音符どおりに残すことではなかったと語った。ジーン・シモンズ(Gene Simmons)はもっと素っ気なく、みんな全部ライブだと思っているが違う、と認めている。クレイマーの言い分は一行で足りる——オーバーダブだろうと構うものか、エネルギーはちゃんと伝わってくる。スタジオの完成度ではなく、アリーナの体温で押し切った一作だった。
1978|THIN LIZZY『Live and Dangerous』——証言が真っ二つに割れた二枚組
アイルランドのハードロック・バンド、シン・リジィ(Thin Lizzy)の代表作とされる二枚組。1976年11月のロンドン、1977年10月のフィラデルフィアとトロントで録音され、1978年1月にパリのデ・ダム・スタジオでオーバーダブとミックスが施された。プロデュースはトニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)。
この盤の話を始めると必ず論争になる。ヴィスコンティは「75%はスタジオで録り直した」と語り、テープに残ったのはドラムと客席のざわめきだけだと言った。マネージャーのクリス・オドネル(Chris O’Donnell)の証言は正反対で、75%はライブのまま、手を入れたのはバッキング・ボーカルと数本のギター・ソロに限られるという。ギタリストのブライアン・ロバートソン(Brian Robertson)に至っては、ステージ上の音量では楽器同士が被って分離しないのだから、オーバーダブなど物理的に不可能だと突っぱねた。同じ一枚をめぐって、当事者の証言が「75%はスタジオ」と「75%はライブ」に割れている。
「The Boys Are Back in Town」のツインリードが互いを追う間合いや、フィル・ライノット(Phil Lynott)のMCに宿る演劇的な溜めは、卓の上で足せる種類のものではない。ライノットは1986年、36歳で世を去った。バンドリーダーとしての彼の立ち姿を丸ごと残した記録は、結局この二枚組しかない。
1979|UFO『Strangers in the Night』——シェンカーが去り際に残した音
1978年10月、シカゴとルイヴィルで録音されたUFOの二枚組。翌1979年1月、クライサリス・レコードから発売された。ギタリストのマイケル・シェンカー(Michael Schenker)はこのツアーを最後にバンドを去り、本作が在籍最後の一枚になる。彼がオーバーダブを拒んだという話が長く流通してきたが、裏づけの取れる証言はない。盤に焼き付いた音のほうは、そんな伝説を必要としていない。
「Rock Bottom」のソロは、後続世代のギタリストにとって教典に近い。「Doctor Doctor」「Lights Out」「Love to Love」——曲の並べ方まで含めて、ハードロックのライブ盤というフォーマットの完成形がここにある。
1979|JUDAS PRIEST『Unleashed in the East』——東京から始まったメタルの輸出
同じ1979年、ジューダス・プリースト(Judas Priest)も東京でテープを回した。2月10日の厚生年金会館と15日の中野サンプラザ。Hell Bent for Leather ツアーの日本公演で、卓についたのは以後10年バンドと組むトム・アロム(Tom Allom)。ドラマーのレス・ビンクス(Les Binks)にとっては、これが在籍最後の作品になった。
ここにも注釈がつく。ハルフォードは、時差ぼけで喉が壊れていたためボーカルをスタジオで録り直したと認めている。一部のファンが本作を「Unleashed in the Studio」と呼んで茶化すのは、その一点をつかまえてのことだ。演奏は差し替えられていない。K.K.ダウニング(K.K. Downing)とグレン・ティプトン(Glenn Tipton)の双子ギターが追いかけ合うあの構造は、ステージの上でしか完成しない形のまま残された。プリーストが世界へ売れた最初の一枚がライブ盤だった——このジャンルらしい順序が、ここで始まる。
1981|MOTÖRHEAD『No Sleep ’til Hammersmith』——ハマースミスの音は一秒も入っていない
タイトルに反して、本作にハマースミス公演の録音は入っていない。盤の半分以上は1981年3月30日のニューカッスル・シティ・ホール、残りはリーズ公演。「Iron Horse/Born to Lose」の一曲だけ1980年のテイクが混ざる。6月にブロンズ・レコードから発売されるや、英アルバム・チャートの1位へ直行した。モーターヘッド(Motörhead)が英国1位を獲ったアルバムは、後にも先にもこれ一枚。
レミー(Lemmy)のベースは歪みきって低域の主役を奪い、“フィルシー” フィル・テイラー(“Filthy” Phil Taylor)のドラムは詰め込みすぎてズレる寸前で持ち堪える。“ファスト” エディ・クラーク(“Fast” Eddie Clarke)のギターは細かい音符を捨て、轟音の壁に賭ける。三人が同じテンポを守っているとは思えない瞬間が何度も来て、その崩れる寸前の均衡がそのまま音の正体になっている。デイリー・テレグラフ紙は本作を史上最高のライブ盤に挙げた。
1985|IRON MAIDEN『Live After Death』——二つの季節を貼り合わせた到達点
前半13曲は1985年3月14日から17日、ロサンゼルス近郊のロング・ビーチ・アリーナ。後半5曲は同じWorld Slaveryツアーの半年前、1984年10月のロンドン、ハマースミス・オデオンで録られている。アイアン・メイデン(Iron Maiden)は長すぎるツアーの二つの季節を、一枚の二枚組に貼り合わせた。発売は1985年10月14日。
冒頭に置かれているのは演奏ではない。ウィンストン・チャーチルの演説の抜粋が流れ、そこから「Aces High」へ雪崩れ込む。ブルース・ディッキンソン(Bruce Dickinson)の煽り、スティーヴ・ハリス(Steve Harris)のベースの走り、ニコ・マクブレイン(Nicko McBrain)の手数が積み上がり、「Hallowed Be Thy Name」の終盤では客席の合唱がバンドの音量に食い込んでくる。メタルのライブ盤がどこまで演出を持てるかの上限は、この一枚で引き直された。
ライブ盤の名盤7枚に共通するもの
七枚を並べて浮かぶのは、録音の良さでもテクニックの精度でもない。どの盤も事故を抱えたまま世に出ている。レーベルの都合で回されたテープ、壊れた喉、去っていくギタリスト、いまだ決着しないオーバーダブ論争。整えきれなかったからこそ、そのバンドの音楽が本来どう鳴るはずだったのかがステージの上で剥き出しになり、そのままテープに焼き付いた。
1972年から1985年までの13年。HM/HRがジャンルとして自分を発見していく時期と、そのまま重なっている。スタジオ録音の技術は年ごとに上がっていたのだから、ライブ盤の分が悪くなってもおかしくなかった。現実は逆に転んだ。バンドはそのたびにステージでしか鳴らない音をテープへ残し、ジャンルの輪郭を引き直してきた。
次にこのリストを更新する一枚は、まだ誰も録っていないのかもしれない。

