1979年5月、イギリスでふたつのことが起きた。ひとつは政治の大転換で、マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)が首相に就いた。もうひとつは音楽の小さな火花で、音楽誌Soundsに、のちに「NWOBHM」と略されることになる言葉が初めて載ったのだ。
その言葉は「New Wave of British Heavy Metal」——イギリス産ヘヴィメタルの新しい波、という意味だ。言葉を生んだのは編集長のアラン・ルイス(Alan Lewis)で、それを記事に刻んだのがライターのジェフ・バートン(Geoff Barton)だった。読みは「エヌ・ダブリュー・オー・ビー・エイチ・エム」、世界のメタル史に永遠に刻まれることになるのだが、その波紋がどれほど大きくなるかを当時の誰も知らなかった。
ヘヴィメタルが姿を変えていく物語——「工場地帯の怒り」が「世界の音楽」へと育っていく。これは命名の記録ではなく、ひとつの革命の記録だ。
NWOBHMは1979年にイギリスで生まれたヘヴィメタルの新しい潮流を指す呼称だ。工場地帯の若者がDIYで起こしたこの運動は、後のスラッシュメタル・パワーメタル・ブラックメタルの母胎となり、世界のメタルの基盤を作り上げた。
腐りかけた国の工場地帯から
1970年代末のイギリスは、ひどく荒んでいた。失業率は高く、ストライキが国中を麻痺させ、なかでも1978〜79年の冬は厳しかった。人々はこの冬を「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼んだ。ゴミは路上に積み上がり、電力も断続的に止まり、工業都市の工場は疲弊し、閉鎖される工場も後を絶たなかった。
そのなかで音楽が動いた。
パンクの火がメタルを目覚めさせた
1976年、パンクロックが台頭する。セックス・ピストルズ(Sex Pistols)は体制に唾を吐き、ザ・クラッシュ(The Clash)は社会の不平等を叫んだ。その爆発力は凄まじかったが、パンクは「3コード・3分間」で燃え尽きる音楽でもあり、工場地帯の若者には物足りなかった。彼らはもっと重く、もっと速く、技術的な音楽を求めていた。
そこへパンクの「速さ」と「怒り」、そして「DIY精神」が流れ込む。これがNWOBHMの出発点だった。NWOBHMには徹底したDIY文化があり、多くのバンドが自主レーベルで7インチを出し、地元のパブでギグを重ねていった。
その動きの中心にニール・ケイ(Neal Kay)がいた。ケイが毎週レコードを回した店は、ロンドン北部キングズベリーのパブの奥に間借りしたロック・ディスコ「バンドワゴン・ヘヴィメタル・サウンドハウス(Bandwagon Heavy Metal Soundhouse)」だ。客のリクエストを毎週集計してヘヴィメタルのチャートを作り、それをSoundsが誌面に載せた。レコード契約すら持たないバンドのデモが、その集計の上位で鳴っていたわけだ。やがてその熱がジェフ・バートンの目に止まる。NWOBHMはひとりのジャーナリストの発明ではない。工場地帯の若者がいて、パブの奥のDJと音楽誌がいて、彼らが一体となって生み出したものだ。
革命の旗手たち——NWOBHMを作った主役バンド
Soundsの記事が「運動」を命名したとき、その担い手たちはすでに動いていた。
アイアン・メイデン——NWOBHMの象徴
アイアン・メイデン(Iron Maiden)は1975年、東ロンドンで生まれた。結成したのはスティーヴ・ハリス(Steve Harris)で、ハリスは自ら楽曲を書き、マネジメントまでこなしてバンドを動かした。そのDIY精神はNWOBHMそのものの体現だった。
1980年のデビュー作「Iron Maiden」は、疾走するツインギターと複雑なリズムでNWOBHMの理想形を示した。ジャケットには早くもエディが立っていて、メタルは「視覚的な物語」を手に入れる。真の爆発が起きたのは1982年、アルバム「The Number of the Beast」でのことだ。ブルース・ディッキンソン(Bruce Dickinson)を歌に迎えた最初の一枚で、声の劇性が音を一段引き上げた。「Run to the Hills」は今も世界中のライブで鳴り響いている。
ジューダス・プリースト——バーミンガムからの鋼鉄の叫び
ジューダス・プリースト(Judas Priest)の歴史は古く、NWOBHMよりも前から始まっている。結成は1969年、バーミンガムでのことだ。ロブ・ハルフォード(Rob Halford)がボーカルに加わったのが1973年で、パンク以前から重く速い音を追い求めていた。
1980年の「British Steel」では、「Breaking the Law」のリフが時代を象徴し、「Living After Midnight」の疾走感が圧倒した。NWOBHMを代表する一枚として、今も語り継がれている。ジューダス・プリーストは「メタルの視覚」も定義し、スタッドベルトとライダースジャケットの装いを後に世界中のメタルバンドが模倣することになる。
サクソンとモーターヘッド——忘れてはいけないふたり
サクソン(Saxon)はヨークシャーのバーンズリー出身で、ボーカルビフ・バイフォード(Biff Byford)が率いるバンドは1980年に飛躍した。アルバム「Wheels of Steel」がUKチャート5位を記録し、NWOBHMで初めて「チャートの壁」を破った例のひとつとなる。続く「Strong Arm of the Law」も強く、同じ1980年に即座にチャートインして商業的な成功を証明してみせた。
モーターヘッド(Motörhead)は少し違う位置にいる。1975年にレミー・キルミスター(Lemmy Kilmister)が結成したバンドで、しばしば「NWOBHMの先駆者」と見なされる。1980年の「Ace of Spades」は速さと重さの完成形だった。レミーは2015年12月28日、70歳でこの世を去ったが、彼が鳴らした音は今も鳴り続けている。
革命の地下水流——知られざる影響者たち
NWOBHMの物語には、もうひとつの流れがある。メインストリームの外で燃え続けたバンドたちで、なかでも最も重要なのがダイヤモンド・ヘッド(Diamond Head)だ。
メタリカが世界に運んだ遺産
ダイヤモンド・ヘッドの結成は1976年、ウェスト・ミッドランズのスタウルブリッジでのことだ。デビュー作「Lightning to the Nations」は1980年の自主リリースで、プレスはわずか1,000枚、売り場はライブ会場と通販だけだった。それでも収録曲「Am I Evil?」が、のちのメタル史を塗り替える。
メタリカ(Metallica)のドラマーラーズ・ウルリッヒ(Lars Ulrich)がこのバンドに心酔し、ここから4曲をカバーした。「Am I Evil?」もそのひとつで、メタリカ版のほうが先に世界へ届き、原曲は後から遡って知られていった。それがダイヤモンド・ヘッドの真の影響力を物語っている。
“If you look at the sleeve of the record and compare the photo of Diamond Head with all the other groups there, they had an attitude and a vibe about them none of the others could match.”
「レコードのジャケットを開いて、ダイヤモンド・ヘッドの写真をあの頃のほかのどのバンドと並べてみても、彼らにはほかの誰にも出せない態度と空気があった」
— ラーズ・ウルリッヒ(Metallica)/ GQ
ダイヤモンド・ヘッドはメタリカを通じて世界に名を刻んだ。彼ら自身の音楽は商業的には陽の当たらない場所にあったのに、その音が、スラッシュメタルという次世代の巨人を育てた。
受け取った側の言葉も残っている。ギタリストのブライアン・タトラー(Brian Tatler)は、あのカバーが何を運んできたかをこう振り返る。
“And they covered ‘Am I Evil?’, and we just thought it was very, very flattering; they’d done a great job. But I didn’t expect them to become the biggest metal band of all time.”
「あいつらが『Am I Evil?』をカバーしてくれて、こっちはただただ光栄だと思った。出来も素晴らしかった。だが、彼らが史上最大のメタルバンドになるとは思ってもみなかったよ」
— ブライアン・タトラー(Diamond Head)/ BLABBERMOUTH.NET
ヴェノムとデフ・レパード——それぞれの進路
ヴェノム(Venom)は1978〜79年頃、ニューカッスルで結成された。1981年に「Welcome to Hell」、1982年には「Black Metal」が続き、これらがエクストリームメタルの語彙を定義した。「ブラックメタル」というジャンル名は、このアルバム名に由来する。ヴェノムはNWOBHMで最も過激な方向へ進んだバンドで、その音はスラッシュからエクストリームメタル全般までの源流になった。影響はとりわけ後のノルウェーのシーンに色濃い。
デフ・レパード(Def Leppard)は別の道を進んだ。結成は1976〜77年、シェフィールドでのことで、1979年の自主制作EP「The Def Leppard E.P.」(看板曲は「Getcha Rocks Off」)でNWOBHMの急先鋒となった。その後はMTV時代に音を磨き上げ、世界的なアリーナバンドへと変貌していく。NWOBHMから出発して、より広い聴衆へ向かった稀有な例だ。
「より過激に」と「より広く」——このふたつの方向が、NWOBHMという運動の可能性の幅をそのまま映している。
大西洋を渡ったバトン——NWOBHMの世界的遺産
NWOBHMはイギリスの音楽運動として生まれたが、その影響は大西洋を越えていく。アメリカのスラッシュメタル誕生への関与は決定的だった。
スラッシュメタルという継承
1982年のメタリカの初期セットリストは、NWOBHMのカバーで溢れていた。目立つのはダイヤモンド・ヘッドの曲だ。彼らはNWOBHMの速さと攻撃性を体に叩き込み、そこへアメリカの乾いた疾走感を加えた。こうして1983年に生まれたのが「Kill ‘Em All」だ。スラッシュメタルとは、NWOBHMをアメリカで再解釈した音だった。
同じ流れに、ほかの三組がいる。メガデス(Megadeth)、スレイヤー(Slayer)、そしてアンスラックス(Anthrax)だ。彼らもアイアン・メイデンやジューダス・プリーストの影響を直接受けていて、メタリカを加えた4組が、後に「スラッシュ四天王」と呼ばれることになる。ドイツではハロウィン(Helloween)がNWOBHMのメロディ性を押し進め、パワーメタルという新ジャンルを切り開いた。
世界中のガレージへ
ノルウェーでは、ブラックメタルのバンドがヴェノムとモーターヘッドに祖先を見つけた。日本では多くのバンドが、アイアン・メイデンとジューダス・プリーストを出発点に持った。NWOBHMは一つのムーブメントにとどまらなかった。世界中のガレージで種を撒いた革命だった。
現代のどんなメタルバンドを聴いても、そのどこかにNWOBHMの遺伝子が見つかる。疾走するリフ、ツインギターのハーモニー、ドラマチックな展開——どれも1970年代末のイギリスから生まれた音だ。NWOBHMはひとつの姿勢も体現していた——「DIYで音楽を作り、届ける」精神は、ジャンルの枠を超え「自分たちの音楽を自分たちで動かす」構えとして受け継がれている。
1979年5月、Soundsの一行の見出しが世に出た。それがこれほどの波紋を描くとは、誰も思わなかっただろう。そして音楽の革命は、いつも小さな火花から始まる。

