パンテラ(Pantera)とセパルトゥラ(Sepultura)。1990年代のヘヴィメタルを動かした名前を二つ挙げろと言われたら、私はこの二組を出す。知名度で並べればパンテラが前に立つ。「Walk」のリフは世界中のメタルファンの体に入っている。だが「あのバンドがいなければ、自分はこの音をやっていない」と口にするアーティストを数えていくと、指される名前はセパルトゥラのほうへ傾いていく。これは判官贔屓ではない。二つの遺産を並べて聴き比べると、影響の質そのものが違って聞こえてくる。
パンテラ(Pantera)が定義した、怒りの地形
1990年に『Cowboys from Hell』、1992年2月25日に『Vulgar Display of Power』。この二枚でパンテラはヘヴィメタルの語彙を入れ替えた。極端に低く落としたチューニング、グルーヴを殺さずに重さだけを増していくリズム——速さを美徳としてきたメタルへ、「重さと、間」という別の価値が持ち込まれた。フィル・アンセルモ(Phil Anselmo)の喉は他の誰の代わりにもならず、ダイムバッグ・ダレル(Dimebag Darrell)のギターも、誰かの代用がきく音ではなかった。
「Walk」が刻んだ公式
象徴は『Vulgar Display of Power』の「Walk」だ。ハーフテンポで踏み込むブレイク、引き絞るようなリフ、腹の底を殴ってくる低音。あのフィーリングがそのままグルーヴメタルの定義になった。ダイムバッグの組み立て方は、以降のヘヴィなギタリストにとっての「標準装備」へ組み込まれていく。フィルの声の質感も、数えきれないボーカリストへ流れ込んだ。三十年を超えた今でも、ヘヴィなロックの底にはその文法が流れ続けている。
ここに逆説がある。パンテラの影響は、深く吸収されすぎた。意識していようがいまいが、現代のメタルバンドの多くはパンテラの文法で演奏している。標準語になったこと自体が桁外れの功績だ。だが標準語は、誰が最初に喋り出したのかを見えにくくする。パンテラの遺産が失われて初めてその大きさに気づくとしたら、それは遺産が日々の演奏に溶けきっているからだ。
セパルトゥラ(Sepultura)が持ち込んだ「別の問い」
セパルトゥラが生まれたのは1984年、ブラジルのベロオリゾンテ。マックス・カヴァレラ(Max Cavalera)とイゴール・カヴァレラ(Igor Cavalera)の兄弟が立ち上げたバンドだ。アメリカとイギリスがほぼ独占していたメタルの本場へ、南米から声が届く——その事実そのものが事件だった。「メタルはこちら側の国から生まれるもの」という暗黙の前提が、彼らが存在するというだけで揺らいでいく。
Chaos A.D.という転換点
スラッシュとデスメタルの混合で名を上げたバンドが、1993年9月の『Chaos A.D.』で軸をずらす。速さよりリズムとグルーヴを前へ。歌詞には政治と暴力の手触りを乗せた。「Territory」がその到達点だ。攻撃的なだけで終わらず、怒りに行き先がある——「ヘヴィな音楽は何を運べるのか」という問いに、このアルバムはひとつの答えを出していた。
1996年、『Roots』でセパルトゥラはメタルの常識を根こそぎ引き直す。マックスがバンドと立った最後のステージは同年12月16日、ロンドンのブリクストン・アカデミーだった。正式な離脱の発表は翌1997年1月になるが、アルバムが刻んだ爪痕はそれで消えはしなかった。残されたメンバーはデリック・グリーン(Derrick Green)を迎えて歩みを止めず、一人のカリスマを失ったあともバンドは続いた。
「Roots」が開いた扉——ヘヴィ音楽が変わった瞬間
『Roots』は1996年2月、Roadrunner Recordsから欧州で世に出た。打楽器アンサンブルの設計にはカルリーニョス・ブラウン(Carlinhos Brown)が加わる。アフロブラジリアンのリズムが流れ込み、先住民の打楽器や、彼らの集落で録られた音までが層になって重なった。ヘヴィメタルが「自分の外側にある音楽」と本気で向き合った、最初の瞬間だ。出自を隠して欧米の型に寄せるのではなく、出自そのものを音の中心へ据えてみせた。
「Roots Bloody Roots」が届けたもの
「Roots Bloody Roots」が鳴り出す。聴き手が受け取ったのは、ただ重い音ではなく、ブラジルという土地の声だった。「Ratamahatta」はおもにポルトガル語で歌われ、ブラジルの打楽器と重いリフがひとつの塊になる。「Itsári」ではシャヴァンテ族(Xavante)の集落で録音された歌が、加工されないまま刻まれた——マットグロッソ州の村で、1995年11月に録られた音だ。こうした構造を持つアルバムは、当時のメタルのどこにも見当たらなかった。
音楽データベースAllMusicは、このアルバムに五点満点で4.5点をつけた。レビューを書いたスティーヴ・ヒューイ(Steve Huey)は、セパルトゥラを「おそらく1990年代でもっとも個性的で独創的なヘヴィメタルバンド」と記している。『Roots』はニューメタルの胎動に直接火をつけた。「異質な要素をメタルに混ぜ込んでいい」という命題が、後続のバンドの前で実証されたからだ。
現代バンドのDNAを辿ると、見えてくるもの
わかりやすい例がフランスのゴジラ(Gojira)だ。あの骨太のグルーヴの源流を辿ると、セパルトゥラの名前が何度も出てくる。ジョー・デュプランティエ(Joe Duplantier)は『Arise』で入口を叩かれ、『Chaos A.D.』で完全に打ちのめされたと振り返っている。2021年の「Amazonia」がセパルトゥラに似ていると指摘されたとき、彼は言い逃れをしなかった。
“We ripped them off, but we didn’t do it on purpose. But we realized it right after. We were, like, ‘Oh, that sounds like SEPULTURA.’ … It’s a tribute to SEPULTURA — how about that?”
「彼らのサウンドをパクったんだ。わざとじゃない。でも書き終えた直後に気づいたよ。『あ、これセパルトゥラっぽいな』ってね……だからあれは、セパルトゥラへのトリビュートってことでどうだ?」
— ジョー・デュプランティエ(ゴジラ)/Blabbermouth
ニュージーランドのエイリアン・ウェポンリー(Alien Weaponry)はマオリ語で歌う。現在の3人はいずれもマオリの血を引き、先祖伝来の楽器タオンガ・プオロ(taonga pūoro)を自分たちのメタルへ持ち込む。「自分たちの血はどこから来ているか」——1996年に投げられた問いを、彼らはそのまま受け取って鳴らしている。Kerrang!が「セパルトゥラがいなければ存在しなかった11組」を特集し、その一組に彼らを挙げたことも、射程の広さを物語る。
スタイルの継承か、哲学の継承か
パンテラから影響を受けたバンドのリストも、負けず劣らず膨大だ。だがその証言の多くは「パンテラのようなサウンドを目指した」という意味に着地する。マシーン・ヘッド(Machine Head)のロブ・フリン(Robb Flynn)は、デビュー作『Burn My Eyes』を作っている最中、『Vulgar Display of Power』を何度も鳴らしてはあのギターの音と突き合わせていたと明かしている。
“The guitar tone when it came out was just the stupidest, most ignorant guitar tone I’d ever heard up to that point. It became THE guitar tone to beat.”
「あの音が世に出たときは、それまで耳にしたどんなギターの音より馬鹿げていて、無茶苦茶だった。あれが”超えるべきギターの音”になったんだ」
— ロブ・フリン(マシーン・ヘッド)/MetalSucks
スタイルを受け継いだ、ということだ。セパルトゥラへの言及は、手触りが違う。「あの問いかけがなければ、こういう発想自体が無かった」——バンドが向かう方向そのものが、そこで変わってしまう。これはスタイルではなく、哲学の継承と呼んだほうが近い。
どちらが長く効き続けるのか。音のスタイルは時代とともに上書きされていくが、「どこからでもメタルは生まれてよい」という命題のほうは、上書きではなく拡張され続ける。長い射程を持つのは後者だ。
パンテラの偉大さに異論はない。ダイムバッグのギターも、フィルの声も、メタルの教科書に載り続ける一個の到達点だ。それでも「どちらの遺産が、いまのヘヴィ音楽の骨格に深く根を張っているか」と問われると、答えは簡単には片付かない。セパルトゥラが押し開けた扉の向こう側に、今日のヘヴィ音楽の相当な部分が立っている。これは「説」と呼ぶには、根拠がありすぎる話だと私は思っている。
『Vulgar Display of Power』と『Roots』を続けて鳴らすと、二つの遺産が別々の方向へ伸びているのが、音のほうから分かる。

