1990年の夏、アメリカ・ネバダ州の法廷でひとつの実験が行われた。裁判官の面前でレコードが逆向きに再生され、その音の中に自殺を促す声が聞こえると主張する側が、それを証明しようとした。
訴えられたのはイギリスのヘヴィメタルバンド、ジューダス・プリースト(Judas Priest)だった。冗談でも映画の話でもなく、実際に法廷で起きたことだ。
バックマスキングとは何か——逆回しに隠れた「声」の正体
バックマスキング(backmasking)とは、録音された音声を逆向きに再生すると意味のある言葉に聞こえる現象を指し、意図的にそういう音声を録音へ仕込む技法のことも指す。
もともとビートルズ(The Beatles)が1960年代に実験的に用いて注目された手法だが、1980年代のアメリカでは、それが置かれる文脈が大きく変わってしまう。
なぜ80年代に「悪魔のメッセージ」が問題視されたのか
当時のアメリカは「サタニック・パニック(Satanic Panic)」と呼ばれる社会現象の最中にあった。保守的な宗教グループや一部の政治家がロックやメタルに悪魔崇拝の要素を見出そうとし、レコードを逆回しにして「声」を探す運動が広まっていく。
「逆再生すると聞こえる」という主観的な体験は、やがて客観的な証拠であるかのように扱われ始めた。科学の側から見れば、この「聞こえる」現象の多くはアポフェニア(apophenia)——無関係なものにパターンを見出してしまう心理的傾向——で説明がつく。その見解は、当時の政治的な熱狂の前にあっさり後退してしまうのだが。
PMRC 1985年——政治家たちがメタルを公聴会の場に引きずり出した日
バックマスキング論争が最大の政治問題に膨れ上がったのは1985年だ。その年の9月19日、アメリカ連邦上院の商業科学運輸委員会で「ロック・ポップ音楽の歌詞が子どもに与える影響」を議題とした公聴会が開かれた。場を主導したのがPMRC(Parents Music Resource Center)だった。
この団体を共同設立したのは、のちに副大統領となるアル・ゴア(Al Gore)の妻、ティッパー・ゴア(Tipper Gore)だ。PMRCはレコードへの警告ラベル義務づけを求め、バックマスキングによる「隠された悪魔のメッセージ」が実在すると主張した。
ディー・スナイダーとフランク・ザッパの反撃
反論のため証言台へ立った人物がいる。ツイステッド・シスター(Twisted Sister)のフロントマン、ディー・スナイダー(Dee Snider)だ。彼はスーツ姿で議員の前に立ち、私たちの音楽が有害だという主張は市民的自由の侵害だと毅然と語った。もっと鋭い言葉を放ったのがフランク・ザッパ(Frank Zappa)だった。
ザッパは「これは検閲だ。誰の妻が発言しようとも、検閲は検閲だ」と言い切った。反論側には、穏やかな音楽で知られるジョン・デンバー(John Denver)まで立った。これは当時の聴衆を驚かせている。
公聴会はPMRCの思い通りには進まなかった。それでも2か月後、音楽業界はひとつの妥協に同意する。レコードに「Parental Advisory: Explicit Lyrics」という警告ステッカーを貼ること——この小さな四角は、今もアルバムの隅で生き続けている。
ジューダス・プリースト——裁判所に呼ばれたアルバム
1985年12月23日、ネバダ州スパークスで悲劇が起きた。18歳のレイモンド・ベルクナップ(Raymond Belknap)と20歳のジェームズ・ヴァンス(James Vance)が、互いに散弾銃で頭部を撃った。
ベルクナップはその場で死亡し、ヴァンスは一命をとりとめたものの顔に深刻な傷を負った。事件の前、ふたりが繰り返し聴いていたのが、ジューダス・プリーストの1978年作『Stained Class』だった。
1990年7月、ウォショー郡の法廷で何が起きたか
遺族とヴァンスの家族が、ジューダス・プリーストとCBSレコードを相手取って訴訟を起こした。問題にされたのは収録曲「Better by You, Better Than Me」——スプーキー・トゥース(Spooky Tooth)のカバー曲だ。
原告は、その曲に潜む「do it」「try suicide」「let’s be dead」という声が潜在意識への呼びかけだと主張した。請求額は620万ドルにのぼった。
ヴァンス自身は、裁判が始まる前の1988年11月29日にメサドンの過剰摂取で死亡している。裁判は遺族が引き継ぎ、1990年7月16日、ウォショー郡地方裁判所で審理が始まった。
ロブ・ハルフォードが証言した「あの音」の正体
法廷にジューダス・プリーストのヴォーカリスト、ロブ・ハルフォード(Rob Halford)が立った。逆再生で聞こえる音は、私が歌いながら息を吐いた呼気の音だ——彼は冷静にそう述べた。裁判所は証拠を精査して判断を下す。
裁判所の結論はこうだ。「潜在的なメッセージがあったとしても、それが自殺の直接原因とは認定できない」。訴訟は棄却された。
勝訴に代償がなかったわけではない。バンドは法廷費用として約25万ドルを費やし、CBSレコードは原告側弁護士費用4万ドルの支払いを命じられている。無罪は無傷を意味しなかった。
オジー・オズボーン——「Suicide Solution」は本当に危険な曲だったのか
ジューダス・プリーストと同じ時期、別のアーティストも標的になった。故・オジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)だ。1984年、カリフォルニア州の19歳の青年、ジョン・マッカラム(John McCollum)が自ら命を絶った。
その夜、彼が聴いていたのはオズボーンの1980年作『Blizzard of Ozz』。問題にされたのは「Suicide Solution」だった。遺族はオズボーンを提訴する。
原告は、楽曲の器楽パートに「Get the gun, shoot, shoot, shoot」という音が隠れていると主張した。裁判所はこの訴えを却下している。
アメリカ司法の回答は明確だった。「表現の内容が物議を醸すものでも、憲法修正第1条の下で保護される」。
これは音楽が無害だという宣言ではない。法的責任の範囲外だという判断であって、その違いは大きい。
裁判が終わった後に残ったもの
結果だけ見れば、ジューダス・プリーストもオジー・オズボーンも法廷の勝者だ。バックマスキングの主張が裁判所に認められることはなかった。それでも、裁判が引き起こした社会的な影響までは消えてくれない。
「Parental Advisory」ステッカーは今もアルバムに貼られ続けている。メタルは危険だという先入観も残った。それは、あの論争の文脈のなかで育った世代に深く根を張った。
裁判費用と精神的な重圧は、バンドにとって現実の損害だった。勝訴という言葉から受ける印象とは、ずいぶん遠い体験だったはずだ。
バックマスキング論争の本質は、音楽に意識を操る力があるかという問いではない。社会が何かを恐れるとき、その恐怖はどこへ向かうのか——そういう問いだ。1980年代のアメリカにとって、メタルはスケープゴートだった。
音楽が人を操れるか。裁判所はNoと答えた。だが、メタルが人の感情を激しく揺さぶることは、ファンにとって証明するまでもない。あの時代の人々を本当に怖がらせたのは、たぶんその力のほうだ。


